訥々

椅子に座って夢の話をします。

朝にすること

朝起きて、自分がどの時期にいるのか、たまに分からないことがある。

自分は働いているのか、学生か、同居か一人暮らしか。家具の配置、ドアの位置、窓からの景色。

なんでこんなことが分からなくなるのか分からないけど、昨日の自分がつけたエアコンを消して、しばらくぼんやりする時間はまだ夢の中にいるような感じ。

このひとときも、たまに本当にまだ夢の中だったりするから、そんなときは本当に起きるまで部屋中を検分して回らないといけない。

ちょっとした違和感を探しだして「ははん、これは夢だな」と思ったりする。

夢だと思ったら現実だったりするので、そんなときは間違いに恥ずかしくなり、ちょっと動揺する。

 

 

 

 

 

訪れない待ち人

あまり暑くない夏の日に、ドーナツ屋で人を待っていた。

前日に突然「明日のこの時間に約束があったな」と思い出して、自分にしては珍しくドタキャンもせず、待ち合わせ場所にも10分前に着いた。

アイスコーヒーを飲みおわっても待ち人は現れず、私はそろそろ連絡を入れよう、と思った。

そこで困ったことがおきた。相手の名前がわからない。

名前がわからないので、連絡先も探せない。

どうしたんだろう、と混乱したけれど、しばらくして気づいた。私が待っている相手は、たぶん現実では存在していないか、似た人はいるけれど親しい存在ではないこと。

夏は境界があいまいになってしまう。

コーヒーと氷はぜったいに別々の存在なのに、溶けた氷がコーヒーと冷水の層をつくって、ぼやけてしまう。

だれかが私の現実をかき混ぜて、あいまいにしてしまったようだった。

不自然にはっきりと覚えていた約束も、相手を待つあいだの気分も、私の中には感覚がまだ残っているのに、現実にはどこにもない。

 

 

 

 

 

死人をあつめて開く店

夢で、ベンチに座っていた隣の人が、向かいに立つ人にこんなことを言った。

「死にたいですか、なら死んだことにして私のところに来ませんか、死人をあつめて そこの旧市街でちいさなスパイス屋を始めてるんですよ」

私はベンチでサンドイッチを食べてて、口いっぱいにほおばったせいで会話に参加できなかった。

ふたりは歩きだしてしまって、私はベンチに座ったまま店の場所を適当に想像したりした。

 

 

 

 

 

現実のふわふわ感

‪たまに、現実感に乏しい時間というのがあって、そんなときとても悲しい気分になる。

自分はもうこの場所にはいなくて、現実だと思ってるのは自分が昔体験した場面を再生してるだけのような気分になって寂しくなる。‬

古いビデオをひとりで観ているような気分。

たとえばもうそこにはない、1999年のアパートの一室で茫然としている感じ。

そういうとき、飼い猫がやってきて手の甲におでこを擦りつけるので、すこし安心する。

猫は壁の向こうの小動物の足音に視線をよこすこともあるから、もしかすると私もそんな、壁の向こうの人なのかもしれない。

そう考えると、やっぱりすこし寂しくなる。